好きと言うのは、
私たちが持って生まれた
才能のようなものではないか。
◎◎が好きと言う時、
それは自分が◎◎によって
喜びを得る特性を持っている
と言うことだ。
野球を好きな人は野球に触れる
ことで幸せになるだろう。
もちろん野球に何も感じない人もいる。
好きなことと共に生きるのこそ
喜びを感じて生きていくことになる。
一方、反対に××が嫌い
というのはどうか?
物事には対極がある。
大まかなことが好きなら
細かいことはそうでもないかもしれない。
スポーツが好きなら
じっと本を読むのは
そうでもないかもしれない。
好みの偏りだろう。
ただ、本当に嫌いは存在するのか?
こう考えるとちょっと面白い
嫌いは存在せず、
単に、好きが足りないのではないか?
「好く」という動詞がある。
嫌いは結論のように見えるが、
単に「好く」という行為が
足りないだけではないか?
もちろん無理に何かを好き
になる必要はない。
だけれども、何かのご縁で
目の前にあることは
きっと、好きになれるから
あるのではないか?
だから
それを無理に避けることもない。
例えば、全くこれまで
サッカーに興味がなかったのに
人のご縁でサッカー観戦に
行くことになったとする。
これは、何か良かれと思って
引き寄せられたのだから、
好いてみればいい。
どこがおもしろいだろう
どこが好きになれそうだろう?
仕事も同じで、
無限の可能性の中から、
何かのご縁で今目前に自分の
仕事がある。
当然、好きな仕事もそうでない
ものもあろう。
しかし、良かれと思って
引き合わされたのだ。
どこかこの仕事の素敵な
部分はないだろうか?
この仕事で愛を感じるとしたら
どこだろうか?
好いてみればいい。
「好く」は動詞。
好きになることはできるのだ。