言葉は現実を切り取る。
”お茶”と言ったとき
目の前の現実から
お茶と言う飲み物を切り取っている。
だが、本当はこの”お茶”
境界は曖昧だ。
お湯と茶葉、湯呑茶わん
湯気、茶渋のついた茶わん面
茶わんを受けるコースター
どこまでが”お茶”だろうか?
全部お茶だ。
もっと細かく観れば
分子、原子、素粒子レベルで
無限の世界が広がる。
茶葉を作った茶畑の人
耕作機械
果ては、茶葉を作った木は?
土は?水は?太陽の光は?
全部つながっていて、
一つ”お茶”をとっても
その背景には群像を成し、
一つも分離していない
それが言葉に縛られない現実だ。
ではもっと感覚的であればいいのか?
否、五感でさえ現実を切り取る
窓でしかない。
可視光線の範囲、
可聴範囲の周波数
体感できる刺激の範囲
科学においてさえ五感はすべてを
感知できていないことを
物語っている。
言葉、五感、いずれもこの広大な
宇宙をろうそくの火のような
小さな小さな光で照らしている
に過ぎない。
だからこそ、言葉を手放し
感覚を手放し
無限の世界に身を任せるのだ。
何もすることはない。
言葉も感覚も過信せず、
ただ、在る。
時にそんな生き方もよいのではないだろうか?