お釈迦様は人の苦悩には
2つの矢がある
とおっしゃった。
1の矢は、目の前に起きた
出来事による刺激
例えば、愛する人に
冷たくされた。
これが1の矢。
きっと私たちはとっさに
言いようもない気持ちに
なるだろう。
大事なのはここから。
2の矢。
この愛する人に冷たくされた
という1の矢に対して、
「悲しい出来事」
とか
「なんて嫌な奴だ」
とか
「なんでそんなひどいこと言うの?」
とか
自らが意味をつけて反応する。
これが2の矢。
1の矢は向こうから飛んでくる。
2の矢は自らから飛んでくる。
実は人は1の矢ではなく
2の矢によって苦悩する。
そのことをお釈迦様は説いた。
目の前の刺激とそこに対する
条件反射的反応。(1の矢)
これは実はそんなに苦悩にまでは
ならないし長引かない。
出来事に対する解釈、
そこから思い悩む己の意味づけ。
(2の矢)
ここは、大きな苦悩を生み、
さらに負の連鎖を呼び
長引く苦悩となる。
だからこうしてみる。
愛する人に冷たくされた。
(1の矢)
ただ、そのことを見て、
意味をつけない。
言語化もしない。
ただ、愛する人の反応があっただけ。
2の矢は来ない。
1の矢による痛みはすぅーっと消える。
これだけ。
こんなのもいい。
愛する人に冷たくされる。
意味をここで変えてみる。
ああ、照れているんだな。
ああ、不器用なんだな。
2の矢は愛らしいものとなる。
人は刺激に支配されない。
意味づけに支配される。
だが、意味づけは人が支配できる。