仏教、哲学で、「我」を捨てよ
と言われます。
ここでいうが我は、
個人的な欲望、期待、煩悩。
これを捨てることが涅槃に至る道であると。
しかし、それではなぜこうした
「我」則ち「自我」はあるのでしょうか?
もし、必要がなければ「自我」など
そもそもないほうが良い。
だけれども必要だからこそ「自我」は
存在する。それこそ自然の摂理
ではないでしょうか?
私は、「我」があるから「全体」を
認識することができる、それが答えだと
思っています。
例えば、ドラマや映画で感動の
ストーリーを見たとする。
そこでは、主人公が最愛の家族が傷つく
悲しみや、それを乗り越え、
さらなる家族との絆を深め、
真に幸せをかみしめる。
この時、私たちは、
主人公の置かれた境遇を自分に
置き換えて知覚する。
自分の家族がそんなことになったら。
最愛の人が傷ついたら。
試練を乗り越え、家族との愛が深まり
無限の愛情に包まれている自分。
他者のことでさえ、
自分に置き換えることで認識できる、
体感できるのが人間です。
こうして、我から他、他から全へと
認識を広げることができる。
だからこそ、「自我」が存在している。
太極図に示されるように、
陰と陽、部分と全体、自と他、
両極を併せのむのがこの世の真相。
それには、極にいるからこそ対極と
太極をかみしめることができる。
我を個人的な煩悩に偏ることなく、
全体、まさに自然(じねん)に
いきわたらせる。
これが幸せに生きるヒントになるのでは
ないでしょうか?