人はところどころで役割を演じている。

 

我が子に対して、父としての自分

奥さんに対して、夫としての自分

部下に対して、上司としての自分

上司に対して、部下としての自分

店員対して、客としての自分

 

目まぐるしく一日の中で

様々な役回りを演じている。

 

これはこれで、自身の社会的な機能を

適切に表現するために役立っている

のだろう。

 

一方で、この役割、心理学で言えば

「自己認識」が、時に厄介なことがある。

 

役割・自己認識はその人の

信念(信じる物事・固定観念、価値観)

能力、行動、環境を決めてしまうからだ。

 

例えば、父という役割・自己認識は

以下のような固定観念を生むかもしれない。

 

「父は正しくあらねばならない」

「子の模範とならねばならない」

「時に子に厳しくあらねばならない」

「子を正しい道へと導かなければならない」

「言うことを利かせなければならない」

 

この時、子供に対して

自らの正義を押し付ける

うるさ過ぎる父となりかねない。

 

同じようなことが、その時それぞれの

役割・自己認識にも起こるだろう。

 

そこで思うのだ。

 

『いっそ、役割、自己認識を手放しては?』

 

何者ではない自分を生きるのだ。

 

父だからどうだ?というものではない。

子であれ誰であれ、何の変りもない

松崎康学という人間を生きるのだ。

 

誰に対しても変わらない、

超然たる自己を生きるのだ。

 

着飾らない、裸の心で生きるのだ。

 

それが、偽りの自己を捨て、観念を捨て、

正直、誠実に生きる

ということではないだろうか?

 

これほど楽で楽しい生き方はない。